涙の言い訳
「指の動きが遅い! 」
「タイミングがずれている! もっと早く! 」
「薬指をもっとしっかり押さえろ! 」
「最後までボーイングをきっちりする! それでは余韻が残らない! 」
「また指がもたついた! 」
弾けば弾くほど次から次へとダメ出しを喰らう。
香穂子はため息をついて、疲労を感じながらももう一度楽器を構えた。
そのため息が聞こえたのだろうか。
それともぶっ続けでやっていた練習時間を鑑みてだろうか。
月森がピアノの前から立ち上がった。
「…少し休憩しよう。 お茶でも入れてくる。 」
ヴァイオリンを下ろした香穂子は随分情けない顔だ。
「ソファにでも座っているといい。 疲れているだろう? 」
さっきまでより幾分優しい声で言うと、月森は部屋を出て行った。
来週香穂子は、初めて学外のコンクールに出場することになった。
それほど大きな規模のものではないが、それでも大会は大会だ。
学内コンクールの時と違って、当然一発勝負である。
学校側が付けてくれた指導教諭がもちろんいるのだが、それでも不安を感じている香穂子は休日の今日ももちろん
練習日に充てた。
デートができない代わりに練習相手兼指導員の役を引き受けてくれた月森が自宅の防音室を使っていいと言ってくれ
て、朝からずっと練習を見てもらっている。
だが、こと演奏に関しては、月森は実に厳しかった。
ピアノで伴奏をしてくれながらも、気に入らないところがあると即座に手を止めて厳しいダメ出しを飛ばす。
それがまた、香穂子にとっては学校で担当教諭に指摘されたところばかりだったりするのでへこむことしきりだった。
逆に言えばそれはヴァイオリニストならすぐに判る致命的なミスということであり、それを克服しなければ入賞すること
は叶わない。
何度も何度も繰り返して練習するが、なかなか思うように弾けない香穂子の顔には昼前だというのに焦りからか疲労
の色が見えていた。
…落ち込んでも仕方がないが、落ち込む。
ヴァイオリンを始めてまだ3ヶ月ほどしか経っていない香穂子がここまで弾けるのは本来驚異だと判っていても、魔法
の楽器で近道した分だけ必死に練習してきたつもりなのに。
ヴァイオリンを習う者なら大抵は初めに弾けるようになる 『きらきら星変奏曲』 も、香穂子は弾けない。
小学生の頃に習った学校唱歌のメロディラインはなぞれても、楽曲として弾けるわけではない。
それなのに 『ラ・カンパネッラ』 や 『ハンガリー舞曲』 といった遙かに難しい曲が弾ける不自然さを香穂子は未だ後
ろめたく感じることがあった。
それを払拭する為にはひたすら練習するしかないのだが、思うほど上達はしない。
それどころか必死にやればやるほど判らなくなってくる始末だ。
でも、判らなくなったからといって放置するわけにもいかない。
コンクールは来週なのだから。
それに、朝からずっと付き合ってくれている月森にも申し訳ない。
学内コンクールの頃からずっと練習のお世話になってはいたが、今更こんなに出来が悪い生徒では月森に愛想をつ
かれるのではないだろうかと心配すらしてしまう。
ピアノの上にヴァイオリンを置くと、下降の一途を辿る気分を落ち着かせる為にも一休みすることにする。
こんな気分で弾いたって上手く弾けるわけがない。
疲れも手伝ってよろよろとソファまで歩く。
その時、強烈な衝撃が香穂子の身体を貫いた。
茶器の載ったトレイをさほど重そうでもなく持ちながら階段を上がってきた月森は、開け放してあるドアの手前で立ち
止まると深呼吸をした。
気持ちを落ち着かせなければ。
心の中でつぶやく。
焦る香穂子を落ち着かせなければいい演奏は出来ない。
それなのに自分が感情的になっていては香穂子が萎縮してしまう。
今の香穂子はすっかり硬くなってしまっている。
学校でなんでもない時に弾いている香穂子の演奏の方が、余程伸びやかで楽しげだ。
確かに技術は大切だし必要だが、それを追求することで彼女の良さが失われてしまってはなんの意味も成さなくなっ
てしまう。
香穂子の上達を望むばかりに随分きつい言い方ばかりしてしまっていたがそれを不快に思ってはいないだろうか。
今まで積極的に人付き合いをしてこなかった月森は、女の子にどれくらい言ってもいいものなのか、どんな物言いは
相手に不快に思われるのかということをあまり気にしたことはなかった。
厳しいばかりが指導ではない。
どちらかといえば香穂子はダメ出しにも負けずに喰らい付いてくるタイプだが、今の香穂子はだいぶ落ち込んでいた
ようにみえる。
ひょっとして喰らい付いてくる元気もなくなっていたら。
…そんな彼女にきつい言葉ばかり投げつけるようなことをして、香穂子は俺を嫌わないだろうか。
以前なら気にもしなかった不安が次々と脳裏を過ぎる。
もう一度深呼吸してから月森は部屋に入った。
部屋の1番置くにあるソファに目をやる。 が、座っているように言ったはずの香穂子の姿はなかった。
落ち着かせたはずの心臓がどきんと鳴った。
いない…?
どこに、と思ってから、真っ先に最悪のことを思いつく。
まさか、帰ってしまったのか?
俺の指導が気に入らなくて、…俺をイヤになって帰ってしまった…?
愕然としてから、ふとピアノの上にヴァイオリンが置いてあるのに気付く。
改めてみるまでもなく、香穂子のものだ。
いくらなんでも愛器を置いて帰るわけはない。
そう思って、ほぅ、と安堵の息をつく。
帰ったわけではないとしたらどこに?
ドアを入ったところにあるサイドテーブルに紅茶のトレイを置いて、改めて部屋を見回す。
と。
「…っく…、…う…。 」
微かに、泣き声とも呻き声ともつかない声が月森の耳に届いた。
…泣き声?
そう思ってから、驚いて部屋を見回す。
月森のところからちょうど死角になっていたピアノの足の向こうに人影が見えた。
「…香穂子? 」
途端に、びくんと影が揺れたのに確信を持って、月森はピアノの向こう側へ回った。
香穂子がいた。
ピアノの足元で膝を抱えてうずくまっている。
月森が寄って来たことに気付いて、慌てたように顔をごしごしと手の甲でこすっていた。
…泣いていたのか?
月森は思わずその場で固まっていた。
学内コンクールの頃、どれだけ音楽科の生徒から嫌がらせを言われたりされたりしても、月森からどれだけ冷たいこ
とを言われようとも涙など見せなかった香穂子が泣いていたというのか。
魔法のヴァイオリンが壊れた後、ずっと練習に付き合い、散々きついダメ出しを言っても却って立ち向かってきた香穂
子が。
俺は、それほどひどい言い方をしただろうか。
俺は、香穂子の心にそれほどのダメージを与えたのだろうか。
俺は、香穂子をそこまで落ち込ませてしまったのだろうか。
大切な、大好きな少女を、俺が傷付けてしまったのだろうか。
突然声を掛けられて、香穂子は焦って立ち上がろうとしてつい足をもつれさせた。
「〜〜っっ! 」
倒れかけた香穂子の身体を、月森が慌てて受け止める。
見掛けによらずしっかりとした身体に抱きとめられて、一瞬冷や汗が出た香穂子は一転、真っ赤に染まった。
「あ、ありがと…。 」
かろうじてつぶやくが、その後が続かない。
すぐに放してくれるかと思った彼の腕は、そのまま香穂子を放そうとはしなかった。
それどころか、きつく抱きしめる。
それだけで香穂子は動けなくなった。
どきどきと早鐘のように打つ心臓の音が彼に聞こえてしまわないだろうかというくらい強烈に響いているのに、身体は
動かない。
抱きしめ返すことも出来ないまま、香穂子は固まっていた。
「…俺を、嫌いにならないでくれ。 」
不意に、耳元で切なげに告げられた言葉に、香穂子は目を丸くした。
「…蓮…くん…? 」
「誰に嫌われてもいい、だがきみにだけは嫌われたくないんだ。
頼むから、俺から離れていかないでくれ。
俺は、きみの演奏をより良くしたいと思うあまりにいつもついきつい言い方をしてしまう。
だが決してきみをいじめようと思っているわけじゃない。
そんなことできみを傷つける気なんか全然ないんだ。
俺は人と接するのが苦手だし、他人にどう思われていようとあまり気にはしない。
だが香穂子、きみだけは違うんだ。
きみが好きだ。
ずっと、一生きみを離したくはないし、絶対に誰にも渡しはしない。
きみを失うことは、もう今の俺には耐えられない。
だから香穂子、お願いだ。 俺を嫌いにならないでくれ。 」
やっと僅かに腕が緩められると、月森の顔が見えた。
切なげに香穂子を見つめるその真摯な瞳はそれが本気だと物語っていた。
香穂子の頬に更に朱が広がる。
まだ付き合い始めて2ヶ月だが、月森は意外にも手を握ったり肩を抱いたりといったスキンシップが好きで、割と周り
を気にしないでそうしてくる。
みんなが憧れてやまないこの綺麗な少年が自分に向けて嬉しそうにそういった事をしてくるのが照れくさくも嬉しくて幸
せだった香穂子だが、改めてこんなにも真剣に自分を欲していてくれていると告げられるのは照れくさいというよりむし ろ気恥ずかしい。
自分はこの人にそんなにまで想ってもらえるほど素敵な女の子なのだろうかと疑問に思えてしまうほどに。
それでも、気持ちを告げるのは苦手だと言っていた月森がここまでストレートに言ってくれるその言葉を嬉しいと思う
のも本当で、香穂子は少し恥ずかしいけれど、やっと彼の背に腕をまわした。
「どうして私が蓮くんを嫌いになんてなるの? 」
月森の目が見開かれる。
「蓮くんの指導が厳しいのはそれだけ真剣に私の演奏を見てくれている証拠でしょう?
そりゃ少しはへこむけど、今までに感謝しこそすれいじめられてるなんて思ったこと、一度もないよ?
むしろ私の方こそ、こんなに出来の悪い生徒で申し訳ないって思ってるくらいなのに。 」
「そんなことはない! きみはよくやっている。 本当によくがんばっている。 」
即座に言い返した月森に、香穂子は微笑んでみせた。
「ありがとう。 でもね、私もっとがんばらなきゃって思うの。
もちろん自分が入賞したいっていう気持ちもあるけど、私のためにがんばってくれる蓮くんのためにも、私がんばりた
い。
蓮くんに頼りきりの自分がちょっと情けないけど、それでも満足できる演奏がしたい。
そして大好きな蓮くんに、心から素晴らしかったよって言ってもらえる演奏をしたいの。
だって、蓮くんからの祝福が、他の誰からよりも私には嬉しいんだもの。 」
月森の頬が僅かに赤みを帯びた。
思わずつられて恥ずかしくなった香穂子は、顔を隠すようにうつむいた。
「だから、そんな心配しないで。
……離れたくないほど好きなのは、私の方だよ、蓮くん…。 」
途端に、月森は思わず再びぎゅっと香穂子を抱きしめた。
あまりに可愛らしい告白は月森の胸をいっぱいにする。
好きだと、離れたくないと、自分と想いを同じくしてくれる香穂子が愛しかった。
そして、練習に対する思いをもちゃんと理解してくれている香穂子が嬉しかった。
だからもっと好きになる。
もっと惹かれる。
香穂子への想いがどんどん膨らむ。
月森は、その言葉に出来きらない想いを口移しに伝えた。
冷めた紅茶を入れなおして改めて休憩を取っていた時、ふと香穂子が言った。
「でも、蓮くんったらどうして突然そんなに自分のダメ出しを気にしたの? 」
仏頂面になった月森は、言い難そうに、それでもぼそっと言った。
「…さっき、きみが泣いていたから。 」
途端に思わずお茶を吹きそうになる香穂子。
「…え゛っ、あ、その…っ み、見てたの…っ 」
その動揺具合に月森はため息をついた。
「気丈な香穂子がそれほどに堪えることを言ったのだろうかと思ったら、その、とても不安になってしまったんだ…。 そ
れだけだ。 」
「……っ。 」
それきり口を閉ざした月森の横で、香穂子は内心で冷や汗を流していた。
い、言えない…。
実はただ、ふらついた拍子に足の小指をしこたまぶつけて、あまりの痛さに座り込んで泣いていただけだなんてそん
なあまりにもまぬけなことは……。
お互いの気まずさの為か、2人はお茶を飲み終えるまで並んで無言だったという…。
了
07.02.01
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