電話の向こう
月森 蓮は、迷っていた。
さっきから自室にあるコードレス電話を睨んだまま動かない。
電話を掛けるべきか、いや、自分がするべきではないのではないか。
用事があるのならばさっさと掛ければいい。
大したことでないのなら明日、会った時にでも話せばいいことだ。
彼がたかだか電話を1本掛けるのにこれほど迷うなど実に珍しいことだった。
電話の相手は、日野 香穂子。
最近、妙に気になり出した普通科の少女。
そして、今日の夕方まで同じヴァイオリニストとして認められないと思っていたコンクールのライバル。
普通科の者がコンクールに参加すると聞いた時は、それに見合うだけの腕のある者であるのなら別にどうでもいいと
思っていた。
音楽科だろうが普通科だろうが、選ばれたのならそれなりに納得できるだけの腕前のはずだろうし。
自分の邪魔さえしなければ特にどうでもよかった。
だが、彼女の演奏をたまたま初めて聞いた時、嘘だろうと思った。
ありていに言えば、ヘタだった。
まだ、入学したての1年生の方がずっと上手いだろう。
まだ楽譜練習の段階だったにしても何故こんなレベルの者が出場者に選ばれたのかと思い、不快ですらあった。
あげくに実は素人だなどという噂は、納得いかないどころの話ではなかった。
無事に第1セレクションでそれなりの成績を残せた時は、やはり噂は彼女を貶めたい者たちの嫌がらせかと思った。
だが。
あの日見せて貰った彼女のヴァイオリンを見て、その認識が間違っていたことを知った。
それがリリから貰った魔法のヴァイオリンだと聞いた時、彼女の演奏が卑怯な手段でなされていたことに対する怒りと
落胆は、今考えても普段の自分ではなかったようだと思う。
『魔法』がどのようなものかは知らない。
だがそれが、自分たちが十数年かかって得てきたものをあっさりと彼女に与えるものであるのならば、それはとても
許せるようなものではなかった。
自分がなんとなく『彼女の演奏の心地よさ』を感じていたせいもあるかもしれない。
だからこそ、裏切られたという気持ちも相まって、彼女にきつい言葉を言い放った。
あの時の彼女の表情は今でも忘れられない。
きっと傷ついただろう。 それでも涙を見せなかったのは、意地だったのか、涙も出ないほどのショックだったのか。
その後この話が蒸し返された時、彼女は『負けない』と言った。
魔法のヴァイオリンだからこその自信なのかとも思った。
だったら、自分はその上を行ってみせる。
勿論いつも優勝をするつもりでいるが、少なくとも彼女にだけは勝つ。
だが、魔法のヴァイオリンが壊れたとリリに聞かされた時、月森が真っ先に考えたのは香穂子の今後だった。
あんなに腹立たしく思っていたものが無くなってむしろ喜んでもよさそうなのに、思い浮かぶのは香穂子の心配ばか
り。
手元に魔法のヴァイオリンがなくなった今、香穂子はもうコンクールを辞退するしかないのではないか。
あの演奏が彼女の実力でないのなら、もう二度と彼女の演奏を聴くことはなくなってしまうのではないのか。
彼女はもう、ヴァイオリンをやめてしまうのではないのか。
「それは違うぞ、月森 蓮。」
リリは言った。
「まず言っておく。 おそらくお前は誤解しているだろうから。
日野 香穂子に与えたヴァイオリンは、決して構えていれば素晴らしい演奏をしてくれるという類のものではない。むし
ろ、より練習しなければ使いこなせないものなのだ。」
リリが教えてくれた『魔法』は、半分は合っていたが半分は違っていた。
あくまで技術面のフォローをしてくれるというだけものであること。
曲自体は彼女が自分で練習を重ねなければ上達などしないこと。
彼女の演奏は間違いなく彼女自身の心を映したものであり、ヴァイオリンに弾かされているものではないということ。
「確かに幼い頃から練習を重ねて習得した技術を、ただのド素人がいきなり得てしまったという理不尽さを素直にお前
に受け入れてくれというのは難しいことかもしれん。
だが、それを日野 香穂子に向けないでやって欲しいのだ。
彼女はただ、我輩の願いを聞いてくれただけなのだから。
彼女は初め拒否したのだ。 自分にはできない。なにより他の参加者に悪いからと。それを無理やり引き受けさせたの
は我輩なのだ。
責めるべきは我輩であって日野 香穂子ではない。
だから、あの娘を卑怯者呼ばわりするのはやめてやって欲しい。」
その言葉で月森は、先日自分が香穂子を詰ったことをリリが知っていたと気付いた。
「日野 香穂子はとても頑張っている。
やらせておいてなんだが、無理やり嫌々で始めたはずなのにあんなに頑張ってくれるとは正直思っていなかった。
彼女は昼休みも放課後も、とにかく練習に明け暮れている。
だが、それなのに彼女には指導してやる者が誰もいない。
月森 蓮、お前に限らず、音楽科の生徒には皆、担当の指導教官がいるだろう。
必要ならばいつなりと指導を仰ぐことも出来る。
しかし、本当は一番指導が必要な日野 香穂子にはそれがいないのだ。
本来なら金澤 紘人が見てやるべきなのだろうが、あやつ、面倒がって聴くくらいしかしてやらん。
だから、そのかわりにヴァイオリン自身が自分の弾き方を彼女に教えてやっておるのだ。
我輩の魔法は永久のものではない。魔法が消えるまでのささやかな補助なのだ。
そうしてやることで、音楽の楽しさを知らなかった娘が新たな喜びを知るきっかけになる。
それは、音楽科のものにしか与えられん特権ではないはずだ。
だからあの魔法のヴァイオリンは日野 香穂子の専属教師だと考えてみて欲しい。
…そういう解釈をしてやるわけにはいかんだろうか?」
月森は、言葉を失っていた。
確かに香穂子は、いつもひとりで練習していた。
見かければ楽譜と首っ引きで弦を鳴らしていたこともよくあった。
たまに土浦や王崎先輩などがなにか指摘すれば、必死に教えを乞うていた。
防音設備完備の自分と違って普通の一般的な住宅であろう彼女の家では、帰宅後に練習することも叶わない。勿論
普通に宿題もあるだろう。
それでも曲をより深く理解し、弾きこなすには彼女にはあまりに知らねばならないことが多すぎて。
考えてみれば、ヴァイオリンは普通なじみのない人間には、弦のどこに弓を当て、なにをどう弾けばドレミと音が出る
のかすらもわからない難解な楽器であるはず。
音符くらいはわかるだろうが、楽譜をちゃんと読み、理解できるかどうかはまた別の話だ。
それを香穂子は、ちゃんと教えてくれる人も無く、ひたすら独学に近い状況で勉強を重ねてセレクションをこなしている
というのか。
有利どころか、実は彼女は一番不利な立場なのではないのだろうか。
「月森 蓮。無理を承知で言う。日野 香穂子を気遣ってやってくれ。 」
リリは言った。
自分も随分落ち込んでいる顔つきで、それでもリリは香穂子を気遣っていた。
「たぶん日野 香穂子は、魔法のヴァイオリンのことをお前以外には話していないだろう。
だからひとりでつらい思いをしていると思うのだ。
あれほど嫌味を言われたり意地悪をされたり、いろいろと難儀な目にあっているというのに涙ひとつ零さなかったあの
娘が、壊れたヴァイオリンを見てぼろぼろ泣いていた。
…我輩には、掛けてやる言葉が浮かばなかった。」
彼女は、唯一の教師とも言うべき相棒のヴァイオリンを失い、どんなに絶望しているのだろうか。
自分との帰宅の約束を忘れて帰ってしまうほどに。
自分がどんなにキツい言葉を浴びせてもぐっと耐えてきた彼女が涙を零すほどに。
次のセレクションまでそれほど時間があるわけではない。
今まで補助があったものがいきなりなくなって、果たしてまともな演奏ができるのだろうか。
いや、それ以前にヴァイオリンを弾く気になれるのだろうか。
何か言ってやれば、少しでも彼女の心を軽くすることができるだろうか。
蓮は、意を決して受話器を取った。
らしくないと言われようと、彼女が気になって仕方ないのは事実。
ここで電話しないで後悔するより、電話をしてやっぱりかけなければよかったという方がまだマシな気がする。
もしも彼女にまだ意欲があるのなら、出来る範囲で自分が教えてもいい。
なんなら休みの日にでも防音室を提供してもいい。
電話の向こうにいる少女が少しでも元気を取り戻してくれるのなら。
自分にも屈託無く向けてくれる明るい笑顔をまた見せてくれるのならば。
「…あの、月森と申しますが、日野さんのお宅でしょうか…。」
了
05.04.13
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