千里の道も

 
 
 それはとある朝の事。
 左大臣の出立に随行する為に外に出た頼久は、ふと目の端に妻の姿を見つけた。
 たまたま他の武士団の妻たちと仕事を移るところだったあかねは、大好きな旦那様の姿を見つけて嬉しそ
うに手を振る。
 頼久は可愛い新妻の元に寄っていくと、優しい微笑みと共に言った。
「行って参ります、あかね殿。 」
「気をつけていってらっしゃいませ。 お役目がんばってね。 」
「はい。 」
 にっこりと可愛い笑顔を向けられて、頼久は他の者がいなかったら口づけでもしそうな甘い微笑みを浮か
べてひとつうなずくと、では、と仕事に出掛けていった。
「……もーう、若ったら、ホントあかねにベタ惚れよねぇ。 」
 見送った頼久の姿が見えなくなると、あかねの隣にいた女がため息混じりに言った。 
 するともう1人の女も同じようにうんうんとうなずく。
「朝から当てられちゃったわ、まったく。 」
「え、そ、そんな、そんなんじゃないよぉ。 」
 顔をぱたぱた仰ぐ真似をされてあかねは慌てるが、2人はにやにや笑っている。
「なーに言ってるのよ。
私、若のあんなカオ、あかねと一緒になるまで見たコトなかったわ。 」
「どっちかって言ったら無表情で用事でもない限り近付き難い方だったんだから。
あかね、どうやってそんなに若に惚れられたの? 教えなさいよ。 」
「その分じゃ夜の方も激しそうよね。 どうなの? 」
「ど、どうって〜、そんなコト言われても〜。 」
「あ、首筋に跡が。 」
「あかね、喉元のとこにも。 」
「え゛っ、うそっ! 見えるところにはつけないでって言ったのに! 」
 慌てて襟を掻き合わせるあかねに、2人は面白そうにからからと笑った。
「嘘。 やっぱり大変そうねぇ。 」
「そうか、見えないところにはいっぱい跡がついてるんだ。 」
「〜〜〜っっ、妙さん、志乃さん〜っ! 」
 からかわれてあかねは真っ赤になっている。
 2人も武士団の若い者の妻で、比較的あかねと年近いせいでよく一緒に行動している。
 ただでさえ後々自分達の上に立つ立場となる若棟梁の妻なのに、それが実はあの龍神の神子と知って初
めは遠慮していたが、そのあまりの仕事の出来なさ具合を見かねて助けているうちに仲良くなったのだった。
 あかねは初めてできた同性の友達と言えるこの2人がとても大好きで、今日はこれを助けてもらった、こん
なことを教えてもらった、おかげでこんなことができるようになったよ、と2人のことを頼久に話さない日はない
ほどだった。
 そのせいで2人の夫であり自分の部下である男たちに頼久が礼を言い、奥方に妻をよろしく頼むと頭を下
げ、言われた方はわたわたと慌てていたという噂話があるらしい。
 ともかくあかねと頼久の睦まじさは、既に武士団中に知れ渡っていた。
 元々棟梁の大反対を再三の説得の上に押し切った、己の主であった斎姫との身分差を越えた大恋愛であ
る。
 武士団の者達も、龍神の神子という高貴で恐れ多い肩書きに似つかわしくなく腰の低い可愛らしい少女に
元々好意的だったのだが、その姫君がとうとう若棟梁の妻になった。
 結婚してからも あかねの態度は変わらず、むしろ謙虚に仕事や作法などの教えを請う姿に皆、好感を持っ
てあかねを受け入れた。
 そしてそのあかねをなにかと気に掛け、声を掛け、以前はあまり見せなかった柔らかい笑みを人前でも構
わず頻繁に妻に向けるようになった若棟梁の変化をも喜んでいた。
 あとはいつ奥方が身籠るか、あまり無理をさせると昼間奥方が大変ですぜ、などと男達は若棟梁をからか
い、照れている頼久を豪快に笑い飛ばした。
 以前はそんな軽口も叩けない雰囲気だった頼久の態度の軟化は武士団内の雰囲気をも一転させ、それも
みんな奥方のおかげだとあかねに感謝する者すらいた。
 だが、それを必ずしも良しと思わない人物もいたのである。



 数日後。
 あかねは水を汲みに行こうと台盤所から外に出た。
 だが、出たところで偶然そこに来た者にぶつかり、倒れてしまう。
「済まぬ、大丈夫か? …あかね殿っ。 」
 その声に顔を上げると、倒れたあかねに手を差し出していたのは頼久だった。
 慌てて立ち上がると、両手で着物をぱたぱたと払いながら笑顔を見せる。
「このくらい大丈夫。 私こそごめんなさい。 」
「いえ、あかね…殿…、私が前をしかと見ていなかったせい、です。」
 ふとあかねは違和感を感じて頼久を仰ぎ見た。
 いつもの頼久のように見えるが、なにか変な気がする。
「頼久さん、なにかあった? 」
 突然の妻の指摘に頼久は一瞬微かに反応したが、それでもすぐいつもの微笑を向ける。 
「いえ、特になにも。 」
「ホントに? 」
「はい。 あなたにご心配をおかけするほどのことはありません。
ですが、ご心配いただきありがとうございます。 」
 微笑まれて、あかねは自分の感じた違和感が気のせいだったのだろうかと思う。
 だが、口に出したのは違うことだった。
「それならいいんですけど。 ところで頼久さん? 」
「はい? 」
「私に敬語なんか使わなくても、もっと砕けた言い方でいいですってば。
若棟梁が自分の奥さんにそんな丁寧な言葉遣いしてたらおかしいって言われちゃいますよ? 」
 途端に、それまで穏やかだった頼久の表情が一転した。
「誰かにそのようなことを言われたのですか? 」
「え? そういうわけじゃないけど、そのうち言われちゃうよ、って言ってるだけです…けど。 」
 妙に真剣な顔であかねの顔を覗き込んでいた頼久は、その答えに肩の力を抜いた。
 そしてその反応に不思議そうな顔をしているあかねに苦笑してみせる。
「…気をつけるように致します。 」
「ほら、敬語使ってる。 」
「あ…、はい。 」
「そのうち私のことも、ちゃんとあかねって呼び捨てにしてね? 」
「…っ、……努力します。 」
 困惑顔にあかねはくすくすと笑う。
 気持ちが通じ合った頃から言っていることだ。 今日明日にでもすぐに直るなどとは思っていないが、そのた
びに申し訳なさそうな顔をする頼久がちょっと可愛いなどとあかねが思っていることを知ってか知らずか、年
の離れた旦那様は、それでは、と立ち去っていった。
 その胸のうちに、ひとつの決意があることも知らずに。


 その後の頼久はなにか変だった。
「あかね、殿。 それを取ってもらえま…もらえるか。 」
「はい、どうぞ。 」
「申し訳ござ…いや、ありがとう。 」
「…いえ。 」
 なにやら言葉遣いが変だ。
 どうやら突然一生懸命あかねに対する言葉遣いを変えようとしているようだが、違和感満載である。
「…若、いきなりどーしたの? 」
 妙があかねに問うが、どちらかと言えばあかねが訊きたい。
 突然亭主関白に目覚めたというわけでもなさそうだが、本人もとても不自然な言葉遣いに四苦八苦してい
るように見えるのは気のせいか。
 他の武士団の者達に対するのと同じ言葉遣いであればいいのに、思わず出てしまう敬語を必死に言い変
えているせいで却って妙なことになっている。
 そして実は、もうそんな様子が昨日から続いているのだ。
 夕べは頼久が夜勤で戻らず、突然何故そうし始めたのかを問う機会がなかった。
 以前あかねが頼久に言った『敬語を直して』を実践してくれようとしているのかと、あかねはちょっと申し訳な
くなる。
 そんなに頼久が難儀な思いをするとは思っていなかったのだ。
 なにより、あかねに対してだけ、とても喋りづらそうな頼久がちょっと気の毒だ。
 そんなに無理してまで言い直さなくても、と思わないでもないが、本人が努力している以上止めるのも悪い
気がする。
 それにしても、それなのにあかねの呼び方だけはどうしても“殿”が外れないのがおかしい。
「あかね、殿、棟梁のところまで使いをお頼み、いや、頼みたいのだが。 」
 なにか書き付けていた書簡を持ってきた頼久が、あかねを呼んだ。
「本当なら私が持って行くべきものです、だが、藤姫様に呼ばれております故、代わりにお持ちしたと棟梁に
お渡ししてくだ、するように。 」
「あ、はい、すぐに。 」
 差し出された書簡を大切に受け取ってから、あかねは無理しまくりの旦那様を見上げた。
「…頼久さん。 」
「はい、あ、いや、どうした? なにか判らぬことでも? 」
「そうじゃなくて…。 」
 頼久の努力は買うが、どう聞いていても変だ。
 少し離れて2人のやり取りを聞いている妙と志乃など、聞き慣れてくると笑いを堪えるのに必死らしい。
 やっぱり止めようかどうしようかと迷って、あかねはため息をついた。
「なんでもないです。
 それじゃ、お使いに行ってきますね。 」
 部屋を出て行くあかねを見送りながら、頼久は大きなため息をついた。
 大きな仕事をしたわけでもないのに、妙に疲れたような気がした。



 棟梁の部屋の前で膝を着いたあかねは、緊張しながら声を掛けた。
「棟梁、あかねです。 若棟梁から使いの書簡を持って参りました。 」
「入りなさい。 」
 応えがあって、あかねは部屋に足を踏み入れる。
 奥の文机に向かっている棟梁は顔を上げることもなくなにか書き物をしていた。
「こちらに。 」
 言われて預かり物を棟梁の文机の端に置く。
 視線だけで確認した棟梁は、ちらりとあかねを見やった。
「本当なら若が直接お持ちすべきものですが、藤姫様に呼ばれておりますので代わりに私がお持ち致しまし
た。 」
 うなずいた棟梁は、すぐに書簡に手を伸ばすでもなく、ふとあかねに視線をやった。
 そのまま退出しようとしたあかねはその視線を受け止めて声が掛かるのを待った。
「あかね。 」
「は、はい。 」
 妙に緊張する。
「常より、若棟梁と呼ぶようにしなさい。 」
「…! 」
 あかねは思わず目を見開いた。
 穏やかだが厳しい棟梁の目があかねを見据えた。
「常には儂を棟梁と呼び、私用に父と呼ぶのをそなたに許しているように、喩えそなたの夫であろうと、だから
こそ他の者に示しが付かぬような呼び方をしていてはならぬ。
そなたは源氏の若棟梁の妻女である自覚を常より持ち、武士団の結束を強め、女達の中心となるべく努力
し、一族の信頼を得ねばならぬ。
その為にもきちんと公私の区別をつけ、分別を弁えなさい。 よいな。 」
 重い口調に、あかねは思わず身を硬くする。
 おそらく棟梁は、普段からあかねが自分の夫を『頼久さん』と名前で呼んでいるのを苦々しく思っていたの
だろう。
 元々はあかねの方が主であり頼久が膝を折っていたが、今は夫婦となりあかねは反対に頼久を立てる立
場である。 いつまでも己の妻に頭が上がらぬが如き振舞いでは次期棟梁として威厳も形無しとなってしまう。
「…申し訳ありません。 これから気をつけます…。 」
 教師に怒られた生徒のように小さくなるあかねに、棟梁は言った。 
「だがそなたが武士団に慣れ、早々に皆に溶け込むのは良いことではある。
未だ判らぬことや戸惑いも多くあろうが、それを早く覚えようと人一倍努力しているそなたの姿は皆賞賛して
おる。 
それは舅として誇らしく思う。 」
 思わずはじかれたようにあかねは顔を上げた。
 棟梁に褒められたことなど初めてだ。 
 そして、舅として、義父として喜んでくれている、そう言われたのが信じられないほどに嬉しかった。
「ありがとうございます!
私、もっともっとがんばります、お父様! 」
 思わず全開の笑顔で言ったあかねは、では失礼します! と元気に挨拶して退出して行った。
 それを見送った棟梁は、ため息をついた。
「…だから、公私の区別をつけなさいと言っておろうに…。 」
 やれやれとひとりごちた棟梁の口元には、それでも苦笑じみた微かな笑みが刷かれていた。



 頼久はあかねの待つ家の前で、はぁ、と大きくため息を付いた。
 あかねにどうやって話しかけたらいいのかよく判らなくなってしまっていた。
 何故あかねには武士団の部下や女達に話しかけるように普通に話せないのか。
 普通に、いつも通りにと思えば思うほど、逆にドツボにはまっている自分がとても情けない。
 しかし、自分は決めたのだ。
 あかねと、つい出てしまう敬語ではなく、普通の口調で話すようにしようと。
 最終的にはどうしても言ってしまう『あかね殿』でなく、『あかね』と呼び捨てにするのが目標だが、なかなか
そこまでは到達しない。
 それどころか、わけの判らない言葉遣いをして一体どうしたのかと言われる体たらくだ。
 あかねの傍にいたいと思うのにまともに話せない。
 まだたった2日で、それは頼久にとっても苦痛になりつつあった。 

 足取りも重くあかねの待つ部屋へと足を向ける。
 愛する妻の元へ戻るのにこんなに気が重いのは初めてだ。 
 覚悟を決めて部屋へ入る。
「…ただいま戻りま、戻った。 」
 …第一声から失敗した。
 思わずため息をつきかけた時、あかねの姿が目に入る。
 そして目を丸くした。
「お帰りなさいませ、若棟梁。 お勤めご苦労様でした。 」
 正座に三つ指をついたあかねが、丁寧な言葉遣いと共に、頭を下げていた。
「…あ、かね…殿? 」
 頼久はいつもと違うあかねの様子に戸惑った。
「夕餉はお召し上がりになりますか? 湯浴みの用意もしてございますが。 」
 顔を上げたあかねは、控え目な笑顔で問うた。
「あ…、夕餉を…。 」
「畏まりました、すぐにお持ち致しますね。 」
 ぽかんとあかねの顔を眺めていた頼久は、あかねが楚々とした仕草で台所の方へ行くのを見送ってから、
はっと我に返った。
 どうしたというのだろう。
 いつもなら笑顔と共に元気な 『お帰りなさい、頼久さん!』 に迎えられ、『晩御飯、食べますか?』 と問わ
れる。 頼久はそれに、『ただいま戻りました、あかね殿。』、『はい、用意していただけますか。 』 と答えるの
だが。
 今日のあかねは武家の妻としての言葉遣いや仕草もきちんと出来ていた。
 それがいけないわけではもちろんないが、突然の変化に頼久は戸惑った。
 夕餉を運んできてからも、頼久が食事を終えるまであかねはいつものように今日の出来事を話すでもなく
静かに控えている。
 それを片付け、部屋へ戻ってきたのを待ってから、頼久はあかねを呼んだ。
「あの、あかね殿。 」
「はい、若棟梁。 お呼びになられましたか? 」
 頼久の前にきちんと正座をしてあかねは微笑んだ。
「………あの、どう、なさったのですか? 」
「どう、って? 」
「あの、言葉遣いや行動がいつもと…。 その、なにかあったのかと…。 」
「若棟梁の妻として、きちんとしようと思っただけですけど、…どこかおかしいですか? 」
「いえ、おかしいなどとは決して。 ですが、その、あまりに突然だったので少し驚いただけなのですが…。 」
 戸惑うあまりに口調が元に戻っているのにも気付いていない。
 頼久は困惑顔であかねを見つめた。 

 もちろんあかねが武家の若棟梁の妻としての行動や言葉遣いを覚えてくれるのは喜ばしいことだ。
 だが、それであかねらしさが失われてしまうのは頼久にとって嬉しいことではなかった。
 あかねの明るい笑顔と元気さ、そして優しさと暖かさを愛しいと思う。
 だが、『若棟梁の妻としてきちんとする』ことでそれが失われてしまうのは、自分に向けてくれなくなるのはあ
まりに寂しいと感じてしまう。
 そう思うのはわがままなのだろうか。

 不意に。
 くすくすっ、とあかねが笑い出した。
 さっきまでの控え目な笑みではなく、いつものあかねの笑顔だと感じて、頼久は目を見開いた。
「…あかね…殿? 」
 問うように名を口にすると、いつものようにあかねはにっこりと笑った。
「ひどいなぁ、頼久さんたら。 そんなに困った顔しなくたっていいじゃないですか。
私がお嫁さんらしくするの、そんなに違和感あるんですか? 」
 いつもの口調で言われて、頼久は妙に力の入っていた肩の力を抜いた。
 その仕草にあかねは更に笑う。
「でも、頼久さんのせいですよ?
いきなりあんな言葉遣いされたら私だって戸惑いますよ。 」
 言われて頼久は苦笑する。
「申し訳ございません。 その、少し思うところがありまして。 」
 くすりと笑ってあかねは言った。
「今日、私ね、お父様に公私の区別をしっかりつけて、頼久さんのこともちゃんと『若棟梁』と呼びなさいって言
われちゃった。 」
「! 」
「ひょっとして、頼久さんも言われた? 」
 無言の返事にあかねは笑った。
 だが頼久は、首を振った。
「…棟梁に言われたからではないのです。
もちろんそれはきっかけではありましたが、以前から自分でも考えていたのです。
いつまでもあなたに敬語を使っていては皆に示しがつかぬということを。
そんな折に棟梁にそれを指摘され、その後に更にあなたにも同じ事を言われてしまいました。
ですから、この機会にと決意したのですが…。 」
「うまく行かなかった、と。 」
「…面目次第もございません。 」
 妻の指摘に思わず小さくなってしまう頼久。
 それにしても、とあかねは首を傾げる。
「なんで私には普通に話せないんですか?
いくら元は仕えていた相手だからって言っても、もう私、頼久さんのお嫁さんなんですよ?
そんなに気を遣うことないのに。 」
「それはそうなのですが…。 」
 判っているのに変えられないのは自分が1番不思議に思っている。
「大体、そうやって変えようってしてる時の間でも、結局私の事を1度もあかねって呼び捨てにしてなかった
し。 」
「う…。 しかし、やはりいきなりあなたを呼び捨てにはなかなか…、 」
「夜の時にはいつも呼んでるくせに。 」
「…っっっ! 」
 ぼそっと1番痛いところを突っ込まれて、頼久は思わず固まる。
 …ひょっとして、夜毎あかねを愛している時にだけ呼ぶ呼び方だから余計に普段呼べなかったのだろう
か。 …その時を つい思い出して。
 そう思った途端、かぁっと染まるカオを見て、あかねがくすくすと笑った。 
 恥ずかしくなった頼久は、真っ赤な顔をいつまでも見られたくなくて笑っている妻をその広い胸に引っ張り込
む。
 不意打ちを喰らったあかねは驚いて笑いを収めた。
「…あまり笑わないで下さい。 自分でも変えられないのが不思議なのですから。 」
 ちょっと情けない声になっている旦那様に、それでも甘えるようにその胸に寄り掛かると、あかねはゆっくり
と言った。 
「ねぇ、頼久さん。 ゆっくり頑張りましょ? 
突然いっぺんに全部変えようとするからおかしくなるんですよ。
“千里の道も一歩から”って言うでしょ。
1つずつ、ちょっとずつ慣れていけばいいって、私、思います。
そしたら、気付いた時にはいつの間にか全部できてますよ。
だから、2人でがんばりましょ。 ねっ。 」

 頼久は微笑んだ。
 あかねは今も以前と変わらず頼久を導いてくれる。
 迷いや間違い、思い込みを責めることなく、教えてくれる。 
 あかねへの敬語が抜け切れないのは、多分、主だったからだけではない。
 愛してやまないその前向きで柔軟な心と暖かな思いやり。
 頼久はあかねのその資質を未だ敬い、尊んでいるからなのだろう。

「…はい。 」
 頼久は微かに応えた。
「少しずつ、努力します。
棟梁にではなく、あなたの御心に添えるように。
そして、呼び捨てにしていても、あなたを大切に想っていると判るように、大切にお呼び致します。
ですから、そのかわりに…あなたもあまり急には変わらないで下さい。
そして棟梁が何と言おうと、家の中では、2人きりの時には、私を頼久と名前で呼んでいただきたい。
…お聞き入れいただけますか? 」
 腕の中の妻を見れば、嬉しそうに微笑んでいて。
 そして、ちょっと恥ずかしそうに顔を上げた。
「…じゃあ、これからは、あかねって呼んでくれる…? 」
 頼久も微笑んだ。
 そして、耳元で囁く。
「…それでは、まずはこれから、そう呼ぶ練習をさせていただけますか…? 」
 え? と問うたあかねの唇をすかさず奪う。
 そしてそのまま抱きしめた。


 妻となった少女を愛しながら何度も練習するその名は、以前は恐れ多くて口に出来なかったもので。
 夫となった男に愛されながら何度もつぶやくその名は、義父に呼んではならないと言われたもので。
 それでも2人は呼び合う。
 お互いの真名を。


 少しずつ。 少しずつ変えていけばいい。
 2人のペースで、ゆっくり。

「…あかね…。 」
「…頼久さん…。 」





                                                    了
                                                    07.01.30

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『さくら堂』2周年記念フリーSS、1位の作品です!


奥さんになったあかねちゃんに対して、普段からの敬語を変えようと努力する頼久さん
なかなか上手くいかなくて焦る姿がなんかカワイイですよね
それだけ頼久さんの中でのあかねちゃんが、大きくて大切な存在だったのでしょう^^
(頼久さんの場合、マジメすぎて逆に難しいのカモ?・笑)

美夜さん、ありがとうございました〜〜ww



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